ゆ、とは融や由の音で、溶け合う余地を
暗示する音でないかと、いつも感じている。
一昔前。さんぽオブレジェンドが幕を開けた頃は
ゆるさの「凄さ」なんて、まだ、何も知らなかった。
緩さは逃避ではない。十数年前の世間が、不況的な
痛みから逃れるため、癒しを、追い掛け始めたことに
あたしは居心地の悪さ、違和感も感じていたんです。
緩さはあくまでゆるさ。
痛みの処方箋ではないはず
しかし、その風あってのサンパー(懐)の季節だったな。
私が緩さを、渇きと苦痛の処方箋に誤用してしまった。
社会を潤す緩さ。という世間の認識にのまれてもうた。
そして依然として、緩さは渇きありきの特権である。
渇きなきものは緩くあるべからず!という風潮!?
それは、働かざるもの食うべからず。
平家にあらずんば人にあらず。といった
特定の視点で語り継がれる、言葉と似ている。
祖先が源氏の一門だから、言うとるのではない。
しかしながら、今。
Yosico-Jimのゆるさは、社会を刺激する希望のツールだ。
それはユルさを独立させる社会リメイク。そして個が社会を
慈しむ回路を志せば、君の隣人格はソッコー定義できるぜ。
さあっ!何かを履き違えてしまった日本社会を慈しみつつ
善の集積回路が完成するまで、ふわふわがっつり行こか。
生きてナンボだ!
生きるために何をする?活きるために!
意気るために!粋るために!息るために!
俺は「能動的生存権」という言葉が大好きだ。
日本の社会は静かな地獄に案内されている。
百歩を譲っても、けっして極楽行きではない。
地獄の手前。修羅の社会、真っ只中ですわ
おれは今日、生かされた、酒のんだ、めし食った
語り合えた、笑いあえた、理想に一つ攀じ登った
いますぐ世界は変えられないけど、
今の暮らしは変えることができるぜ
能動的な生存権、宇宙の気。アタマのてっぺん
百会から体に流し込め。修羅の社会、真っ只中。
ゆ、とは融の音であり、溶け合う余地を暗示する音。
宇宙の気に身を委ね、総てに溶け合う。それが緩さ。
緩さは許しに通じ、風に乗り、浮き上がる道だ。
善のまんなかに辿り着けるよう、身軽になろう。
そんなこんな。俺の体を動かすエネルギーが、善の
中心に辿り着くため、捨てなきゃいけないことたくさん。
(・∀・) !
身軽になろう。今すぐ!
依然として、なお、緩さは渇きありきの特権で
渇きなきものは、緩くあるべからず。というなら
渇いて渇いて、カスカスになりますぞ。渇きなき
いまのユルさと自由を捨て、軽くなりましょうぞ。
そして世間様を、ユルさ独立のために許します。
隣人格があれば、どんな生き方も怖くない。
たとえ世間の傲慢さを許しても、変わらない。
あたしが目指すは、頭のてっぺん遥か上空、
十万光年。善の真ん中!
You’ll done!
では、さようなら、愛しきこの世界!