誰にも優しくない、自然本来のビターな作品を作る。

ざっと数万人の読者さん。まいど〜

世のなか穏やかならぬ事件が続きますなぁ
わくちんロシアやまがみ君、と話題に事欠かず
やつがれにも、ちょいと課題が発生してた。

 
 
 
 
 
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農耕芸術家として、3つの課題に直面した


① 遡ること昨年の春。園主不在の日に、複数のご老人が農場に入り込んでるとの情報。後日に赴くと、立てた畝がボコボコになってた件。

② 半年後の9月末にはョ、イノシシ被害でパースロ全滅。残ったのは芋づるだけだった件。

③ そんで3つ目。ついこないだ5月。傍にある用水路に生い茂った茅を、近隣の出方さんたちが、重機で取り除くというので、うちの畑にユンボが乗り入れられた件。

いや。たしかにそこ

草なんですけどね。

長いあいだ丁寧に手入れして、植生を整えた草なんです。しかし世間では、なんの価値も美しさも見い出せる訳もなく、自動的に雑草判定。いよいよ畑に大きなユンボが入り、水路の底から生えた茅は、どぶのような真っ黒な泥ごと土手にどーんと上げられた。いやーさすが重機‥ 結構な量でした。

もちろん、今となってはスギナが生えた土手も、茅やセイタカアワダチソウから解放すべく時間と労力かけて、植生を変えたのである。

まあ。これが現代社会なのだ。

人間というのはすこぶる横着で

自然の風合いなら、未完なので

何をしても、善だと思ってる


人間どうしでもそうだ。

地位、名誉、権力、ブランド。

着飾るものは、裸なるものを

愚かで未完な存在と思っておる。

これを説明してどんだけ伝わるだろうか。その絶望たるや危機感。あーこれはもう、水路を守るか土手を守るか。どっちも正義とすれば、コトはもう、ちいさな戦争みたいなもんだなと。

はたけの調律を始めて以来、夢中になりすぎて内側の景色しか見えなかったが、このはたけを目にする方々の目線を感じることができた。老人からイノシシまで、どんな目でこの農場を見てるのか。

けっきょく、農場も

見た目。映えが大事

無言の農場が、ナニヲ大事にしてるのかまったく伝わってなかったということだ。殊更、自然栽培にちかくなるほど、園主の意図はまるっきり伝わらないだろうよ。心得がなけりゃ、畑とは言え、荒れ地にしか見えない。これは重文警備の経験則においても、デザインワークから見ても、何かあれば一大事やぞコラ。という、威圧感や緊張感のある視覚伝達メッセージが必要になる。

よーするに。このはたけ。だれでも
どうにでも、解釈できる隙があった。

おおむかし、自らしたため編纂しては、
あちこちバラ撒いてた「余白塾」という
ぜんぜん秘匿されてない、秘伝書に学ぶ.。

就農した当初、手作業ゆえ自然の速度に追いつかず、やつがれが入れないほど荒れ地にしてしまった時期もあった。確かに自然栽培の風情を強めると、世間一般、農場の絵ヅラは認識できないだろうね。時間を忘れてひと目も気にせず、取り組んで来ただけに、ちょい荒れた風景が人を招き入れてしまう隙を作ってしまった。

しかしだ。やっぱり、こんなこと

今まで一度もなかったぞ。おい

ながーい歳月。はたけの竜宮城で必死こいて過ごした。その間、意志という結界を示さなかったばかりに、ツクシ採りの老人を招いてしまったのと同じ。スカスカの国家という畑に侵食した南北朝鮮のフロント政党。そこに銃弾の結界を放つ者が現れた。戦争に敗れ、隣国500年の王朝も驚くほど、心の貧しさをトレースした、見苦しい国にっぽん

もう世界はすっかり変わったのだ!

何も変わらなかった、浦島太郎。
さしずめ、はたけが亀ならば、
乙姫さまにも、会わせてほしい。

スギナ、セイタカ、エノコロ草が舞い踊る、地味な舞台のショータイム。ぜんぶ緑の龍宮城。

さあ。そんなヤツガレ浦島太郎。数秘が示唆する人生の最終章。51歳の誕生月こそ、主観の景色に閉じられた世界を終わらせるときだ。

自然という、ビターな結界をビビッドにして、
主観に閉じた景色は、これから一切ナシとする

ご老人を招いた直接の原因はツクシだが、それを受け止めながら、城郭や要塞、はたまた環濠集落のようなものを目指したい、いかに自然という姿で人さまをコントロールできるか。

ビターな自然は、威厳に満ちた波動だと思う

身を守るため。意志の見える農城にしよう。濠や石垣のような威厳とメリハリのある、質素で着飾らない、結界を示そう。それが目に見えなくても、威厳に満ちた波動は伝わるはずだ。