そう言えば 4月8日はスーパームーンだった。と、同時に、長らくお待たせされた、にっぽん国の緊急事態宣言も発令されたところで、勝手ながら、来るべくしてやって来た「芸財元年」とさせていただきます!
スーパームーンを迎えたコロナは、個の生き方に明暗とコントラストを彩り始めた。
これを一時スピ系で流行っていた、
アセンションというのかどうか。
イン極まりヨウトナスなのか。
コロナは陽を意味するのか。
センセの興味は尽きない。
志村けんは笑いを極めた。そして主演映画が決まった矢先の他界だった。これはすでに、俳優としてドリフから一歩先を行った長さんが呼んだとしか思えない。おいシムラ、ちょっと来い。俳優のステージはそこじゃないぞ。と長さんが申されたのなら、これもアセンションなのかもしれない。
こうやって世の中が突然に強制停止すると、長い時間と向き合わざるを得ない。そして良くも悪くも、利他的になるか、利己的になるか。これまでの暮らし方が生死に直結したかたちで炙り出され、浮き彫りになると思うのだ。
スーパームーンを境に、陰陽のバランスが変化したのではないか?
無意識下に作用する月は、陰として人間の行動、引いてはを人生を抑制しているという。月を愛でる方にとっては、なかなか辛口な見解だが、オイラはこのマドモアゼル氏の説を支持し、賛同している。
もしかしてスーパームーンの月が意味する、強大な力の相対はスーパーな早さで伝播するコロナかも知れない。とすればコロナは陽の属性か?人類を捕殺するゴジラは、歩く放射能だったが、また人類の力の及ばない神の領域に近かった。
そもそも、本来のコロナは100万度を超える高温のプラズマなんだよ。そりゃ、ネーミングだけで両者が繋がるとは思わんが、スーパームーンと100万度のプラズマという意味で捉えるなら、甚だしい出力の加減から見て、無関係とは思えない。
3.11当時、原発のキノコ雲を目撃し放射能の恐怖で塗り固められた日々より、まさか世界がこんなに静まり返るとは思わなかった。ひとの恐怖心に何が起きてるのだ?
思い起こせば地震→津波→放射能と、自分を守るだけで精一杯だったと思う。
しかしコロナは発症せずとも、保菌者となり加害者になりかねない。
にほんに限って言えば、街中でマスクをしないと白い目で見られたり、外出の自粛は他人さまを守るため。という恐怖心とは違った認識が急速に広がってる。
一方で、物流は止まらないのに、まだ買い占めに走る、あさましいご老人もいる。ガムシャラに昭和をすごしたのだろうか。その危機感の行使がどこか、右肩あがり原理主義の経済成長と似て破滅的だ。
それに較べると、子どもたちや若者は意外なほど従順で、自由で柔軟性に富んだ暮らしを始めた。ハロウィンで寿司詰めだった警固公園はもう誰も居ない。そんな若者とて、この数十年は希望のない危機的な時代だったはずだ。それが判らぬ破滅的な危機感を老害と呼んであげたい。
コロナによって炙り出される無意識のじぶん、その現実と理想のコントラストが強烈だ。これまでどうやって生きたか。それがいま一層、強く出てくると思う。
ちなみにオイラの30年は、泥を啜って生きる延びるようなサバイバルだった。しかし3.11以降は、もはや敵も味方もしっかり見えておるw
あたりまえの食料や物流が止まることを学び、泥土を導かれる暮らしにシフトした。自由農業のリスクをヘッジするため、夜は警備業に従事。どちらも接客業でないことが幸いして、いまのところ意外なほどコロナで生活は一変していない。むしろ、こんな時だからこそ、強みが発揮されて忙しい。都市サバイバーのメソッドが効いている感じだ。これもまたコントラストなのだろうか。善し悪しは解らぬが、オイラは生きるために貪欲かつ、利己的でありたい。
涼しい顔で月は光ってはいるが、
月そのものは発光していない。
太陽を写しただけの虚構の光だ。
人びとは思い違いをしている。
じぶんを見るときも同様だ。
社会を写した虚構の自分だ。
それがいまどういう訳か。
社会が投影されない、純粋な
じぶんを見ることができる。
絶好のタイミング。ながーい
オウチじかんだと思うのです。
こんなとき、ありがたいことに、オイラはいつも通りのルーティン。粛々とはたけと赤煉瓦に向っとりますよ。
スーパームーンでコロナが反転したら
地球は光を生むかもしれないね(*゚∀゚)
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